添御県坐神社と長髄彦の謎〜古代の日本と隠された権力者

長髄彦を祀る神社です。

奈良県の北部、生駒にある「添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)」。

とても読むのが難しい名前ですが、この神社には日本の歴史を語るのに欠かせない重要な人物が祀られています。その人の名は「長髄彦(ながすねひこ)」。

今回は、この神社と長髄彦にまつわる歴史をたどりながら、古代日本の記憶に触れて行きたいと思います。

長髄彦とは誰か?

長髄彦は、記紀(『古事記』『日本書紀』)に登場する豪族で、畿内を拠点とする土着の勢力の代表格とされています。

大和地方を中心に勢力を張っていた長髄彦は、「神武東征」において、九州から勢力を拡大しようとするイワレビコ=神武天皇(後の初代天皇)と対峙し、神武の兄・五瀬命(イツセノミコト)を討ち取るなど、当時の中央権力にとって手ごわい存在でした。

添御県坐神社の特徴

添御県坐神社の創建は古代に遡ります。現在、この神社の祭神の一柱に、「武乳速之命(たけちばやのみこと)」の名が見られますが、もともとは長髄彦が祀られており、明治時代になってから神武天皇と戦った人を祀ることは不敬と見做されるとの理由で書き換えられたものです。

つまり、地元の人々にとって長髄彦は「逆賊」ではなく、「守護者」や「英雄」であり、長く地域社会から敬われる対象であり続けていたのです。

記紀における長髄彦の位置づけ

神武天皇と長髄彦の戦いは、土着の首長たちが支配していた地域に、外から来た勢力(大和朝廷の原型)が侵略していく過程を神話という形で描いたものとも解釈できます。

記紀における長髄彦の記述は、どの時代・どの地域でも繰り返される「勝者が都合の良いように歴史を書き換えた」事例の一つと言えるのではないでしょうか。

記紀の成り立ちと長髄彦

記紀が著される半世紀ぐらいは、日本は緩やかな諸勢力による多民族的・多文化的な連合体で、中国からは倭国と呼ばれていました。

しかし、唐との白村江の戦いで大敗した倭国は、天皇を中心とする強力な国家体制の必要性が浮き彫りになり、大和朝廷(ヤマト王権)へと中心が移し、やがて律令国家としての朝廷へと発展していきました。

そして「日本とはどんな国か」「天皇とは何者か」を示す歴史書が必要になりました。これが記紀の作成が命じられた理由となります。

その中で近畿圏では英雄であった長髄彦が「神武東征の最大の敵役」であり、天皇中心の政権成立を正当化・演出する重要な存在として描かれているのも不思議ではありません。

終わりに

勝者の歴史には書かれなかった「もう一つの日本」、先住民の事は土蜘蛛伝説として語り継がれています。土蜘蛛とは足の長い人々であり、長スネ→長髄彦の一族の事です。

その一族をお祀りしている神社があります。御所市の「高天彦神社」です。高天彦神社の側にある「蜘蛛塚」「蜘蛛窟」があります。

他にこの高天彦神社の近くの一言主神社の参道にも蜘蛛塚があります。

大阪の石切神社の「イシキリ」という言葉の語源はアイヌ語で「脚が長い」意味だという説があります。

それほど長髄彦とその部族は広範囲の土地を治めていた豪族だったと言えます。

これらの神社にお参りする事で、古代日本の記憶に触れる事ができると言えるでしょう。

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