平等院が10円玉に彫られている理由は? 平安貴族と戦後の日本

我々が普段何気なく使っている10円玉、よく見ると建物の絵が彫られているのはご存知でしょうか?

その建物の名前は京都府宇治市にある平等院鳳凰堂です。今回はなぜ平等院鳳凰堂が10円玉に彫られるようになったのか? それは10円玉が世に出た時の世相が強く影響しているということをこれから解説していきます

さて、10円玉の正式名称は十円硬貨といい、日本国政府が発行する法定通貨になります。現在の形になったのは1951年から製造されだした十円青銅貨からです。

初めて発行された当時、10円玉は高額硬貨でした。そのため偽造防止のために、平等院鳳凰堂が緻密にデザインされました。

平等院のホームページにも鳳凰堂が10円硬貨に選ばれた理由として「日本の代表的な文化財で、建物に特徴があるからです」と記されています。

建物の特徴としては正面から見たときに鳥が翼を広げているように見えること、屋根に1対の鳳凰が配置されている事で、元々は阿弥陀堂という名称でしたが江戸時代から鳳凰堂と呼ばれるようになりました。

鳳凰

鳳凰はもともと中国の神話に出てくる空想上の鳥で、「論語」などの春秋時代の書物で「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」とされています。それが時を経て日本に入り、仏教の極楽浄土の世界観を表現するために使われる事になりました。

10円玉の模様に採用されたのは「日本の代表的な文化財で建物に特徴があった」からですが、平等院鳳凰堂が10円玉のデザインとして選ばれた理由はそれだけではないように思われます。

平等院鳳凰堂が建てられたのは1053年、当時は末法思想という考えが流行していました。

末法思想とは仏教の開祖である釈迦が亡くなってから時代が下るにつれ、釈迦が説く教えが行われなくなっていくという歴史観です。

当時は貴族の力が衰え、武士が台頭し治安の乱れが激しく、「周書異記」という文献での釈迦が亡くなってからの年月がちょうど末法元年に当たる事もあり、人々の間に終末論(歴史の終わり)的な恐怖が流行していました。

ちなみに仏教の始祖である釈迦は時間に終わりがあるか、ないかという問いに対して意味のない議論(戯論)であり、答えない(無記)という態度をとっているということです。この事からも、元々の仏教と末法思想は無関係であるという事がわかります。

当時は情報不足もあり末法思想は仏教と混同して信じられ、貴族は多くの極楽浄土を模した寺院を建設しました。目的は極楽浄土を観想することで亡くなった後の救いを得られると考えられていたからです。

平等院鳳凰堂はその中で唯一、現在にその姿をとどめる建築物で、藤原頼通により建てられました。

藤原頼通の父の藤原道長は、貴族の最高権力者として
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」
と歌いましたが、道長が亡くなった後に貴族は急速に没落。結果的に日本の貴族文化を伝える最後の建築物となりました。

夜の平等院

次に10円硬貨が世に出た時の状況を考察します。10円硬貨が世に出た1951年、日本は第二次世界大戦で敗戦した後、連合国の占領下でした。

4月には連合国軍最高司令官として6年間日本に君臨したダグラス・マッカーサーが帰国、9月にはサンフランシスコ平和条約が調印され、いよいよ国家としての全権を回復しようとしていた時期に当たります。

国としては軍事力とは違った形でこれから行くぞ、という時期に当たると言ってよいのではないでしょうか? そしてこれは平安時代に武士の台頭により没落していった平等院が建てられたご時世とは対照的な状況と言えます。

前述のように平等院鳳凰堂が建てられた背景には貴族の死後の救いを求める気持ちがありました。しかし平等院鳳凰堂が10円硬貨のデザインに採用された背景には、平和的な手法で極楽浄土を実現していこうという戦後日本の強い思いがあったのではないでしょうか。

いかがでしたか? 宇治の神社仏閣巡りをする上でこの記事が何らかのお役に立てたら幸いです。

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