鉄眼禅師が伝えた一切経〜宝蔵院に眠る名僧の思い

ふだん、我々日本人が慣れ親しんでいる字体である明朝体。

また、あまり使われなくなってきているとはいえ、手書きで文章を書くフォーマットとしてまだ一般的な原稿用紙。

これらのルーツが宇治市の宝蔵院というお寺に眠る1人の僧侶の事業から始まった事をご存知でしょうか?

そして、この僧侶は日本文化へ影響を与えただけではなく、多くの日本人の祖先の命を救った人でもあるのです。

今回はそのきっかけとなった事業である「一切経」の出版と、それを推し進めた鉄眼という僧侶について解説します。

鉄眼は江戸時代に生まれた僧侶で、最初は浄土真宗で出家、後に隠元に師事し、禅宗の僧侶になりました。

 

隠元は中国(当時は明)の僧侶で、隠元をはじめとする明からやってきた黄檗宗という宗派の禅僧たちが持ち込んだ黄檗文化は後世まで日本に大きな影響を与えました。

 

例えば法事でお経を唱える際に広く用いられている木魚は、魚のように眠る事なく修行に励むようにという意味で、黄檗宗により日本で使われ始めました。

その原型となる木製の魚は今でも黄檗宗の寺院である萬福寺に吊るされ使用されています。

もっと身近な例では、隠元らが持ち込んだ豆はインゲンマメという食材として現在も使用されています。

話を戻すと鉄眼は隠元から中国から持ってきた一切経というお経を託され、それを出版するという志を立てます。

 

一切経とは膨大な仏教の歴史の中で読み継がれた経典の中でも代表的なものを選び蔵書として纏めたものです。

 

それまで経典は、写経といって筆で書き写す事によって複製するという形態で伝達されてきました。

 

鉄眼禅師は、多くの経典をいちいち書写する煩わしさがなくなるよう、また経典を多くの人々に流布するためにとの想いから、一切経の版木製作を決意しました。

 

版木(はんぎ)とは、印刷のために文字や絵画などを反対向きに刻した板で、木版印刷や木版画制作に用いられるものです。

 

鉄眼版の一切経の版木の文字は明朝体といい、当時の先進国であった明の文字から影響されたもので、前述の黄檗文化とも言えるものです。

明朝体はその後、日本語のフォントとして現在まで広く使用されています。

 

また、隠元禅師から託された一切経は、明の国で縦一行20字、横が左側10行、真ん中仕切り、右10行で印刷されていました。

その紙を裏返して板に貼って彫っていったので、文字も字の並べ方もそれが継承されて今日の原稿用紙のルーツになっています。

 

一切経の出版事業を手掛けるには、版木を彫ったり印刷するための職人への賃金、版木材料の板や印刷用紙の購入をするために莫大な経費が必要でした。

 

そこで鉄眼は資金調達のため、全国行脚を行い、講経活動(経典の講義)により、多くの人々から寄付金を募り、その資金に当てました。

 

鉄眼は話で人を説得する才能に恵まれていました。その話は学問研究をもとにした理路整然としたものであり、また世のため人のためという純粋な思いからの熱弁であったため、多くの人に深い感銘を与えました。

 

江戸時代には政情が安定し、飢饉で命を落とす人々がいる一方で精神的、文化的な方面にお金を出せる人々が増えてきました。こうした人々の支えで一切経の出版が可能になりました。

 

ただ、出発活動が順調にいったわけではありません。資金調達の活動の最中、大阪地方に大洪水が起こり、多くの人々が亡くなる姿を見た鉄眼は、「私の一切経出版は仏教を興すにあり、仏教を興すは民を救うにあり」と今までせっかく得たお金をその救済のために投げ出しました。

 

その後も大阪で飢饉が起こり、鉄眼は庶民の救済にあたるために出版のために集めた資金を再び使ってしまいました。

 

鉄眼は最初から洪水や飢饉から人々を救うために講経活動を始めたわけではありません。しかし一切経の出版への志を立てなければ、鉄眼に自分の意向で使える資金も集まらず、多くの人々を救うこともできなかったと思われます。

 

二度の中断を超え、1678年に一切経の版木は完成しました。鉄眼はその後も飢饉の救済活動を続け、1682年に53歳で亡くなりました。

 

それまでの活動で救済した難民は数十万人、そして十万人を超える人々がその葬儀に参加したと言われます。

ひょっとすると、我々の祖先の誰かも、鉄眼に救われたのかもしれませんね。

鉄眼は辞世の句として以下の言葉を残しています。

 

七転八倒、五十三年 みだりに般若を談じ 

罪犯天にあまねく 優遊す

華蔵海 踏破す水中天

 

大意は以下の通りです。

 

53年の生涯で悟りを開けないままにいろいろ教えを説いたりした罪は大きい。しかし、仏の教えの道を楽しく歩むことができた。

 

禅宗にとって悟りを開くという事は大切なテーマで、そのためにお寺にこもってひたすら自らの内面修行に励むのですが、鉄眼はその時間やエネルギーを人々に語りかけ、救済する事に使いました。

 

上記の辞世の句にはその矛盾を感じていた事も示されていますが、矛盾を乗り越えて民衆の苦しみと共に生き抜いた清々しさも感じられるのではないでしょうか。

 

鉄眼のお墓は一切経の版木が保管され、現在も細々と出版活動が続けられている宝蔵院の西隅にあります。この事には、「亡くなっても一切経の事は忘れない」という鉄眼の意志が込められています。

宝蔵院では鉄眼の偉業を讃え、後世に伝えるために「鉄眼プロジェクト」という催しを不定期に開催しています。

>>鉄眼プロジェクト

宇治に旅行に行った時は、我々の祖先の命を救ったかもしれない人、鉄眼禅師を尋ねる事で何かご利益があるかもしれませんね。

 

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